raycrisis :: zuntata original story




第1話 ラベンダーの咲く庭

  と気が付くと目が覚めてそこが間違いなく娘のドナの眠る病室であることを確認すると私は大きなため息をつかずにはいられなかった。ついさっきまで夢の中であんなに無邪気にはしゃいでいたドナが、現実の世界では、無機質に張り巡らされたパイプやらコードやらでベッドに縛り付けられていたのだ。その姿は痛々しくて何度もみても胸が痛んだ。できることなら自分が身代わりになっても構わない。今まで何度そう考えたことだろう。その度に真剣に神様に祈りを捧げたが信仰心の薄い私に神様が願いを聞き入れてくれることはなかった。もう一度大きなため息をついて、ベッドを離れて空気を入れ替えるために窓に近づいたとき、窓の外からこの病室を見上げている一人の青年が目に入った。娘の知り合いなのでは、と思って声をかけようとしたが、私が窓に手をかけた途端に消えるように立ち去ってしまった。どこかで見たことがあるような気がしたが恐らく人違いなのだろう。それよりも私の気持を奪ったのは、中庭の花壇に植えられている目にも鮮やかな紫色のラベンダーだった。窓の手摺によりかかりながらその花を見つめ、あの日の出来事をぼんやり思い出していた。

  そう、娘の小さな変化に最初に気づいたのはちょうど今頃の季節、昨年の初夏の頃だった。長く続いた雨が上がり、久しぶりの月を眺めながら、二人でただぼんやりと庭にたたずんでいた私は何だか落ち着かない気持でいた。いつもはベッタリと甘えて腕に絡み付いて離れないドナが、人が変わったようにおとなしくじっと思い詰めたように空を見上げたままだったのだ。母親のいない娘に普通以上の愛情、溺愛と言えるかもしれない愛情、を注いだためか、どこか気分屋でわがままな一面があったが、二人きりの時にこれほど物思いにふけっている娘の姿を見るのは初めてだった。私が沈黙に耐えかね、努めて明るい声で来週予定していたピアズ・パークへの旅行を話題にしようとしたその時、娘が小さな声でつぶやいた。「私もあの月から地球のあなたに手をふったのよ。」その声は背筋が冷たくなるほど私を驚かせた。何故ならばその声は死んだ妻の声そのままだったからだ。金縛りにあったように身動きもしない私を見て、娘は何もなかったようにクスッと笑って、顔をのぞきこんだ。「どうしたのパパ?おばけでも見たみたいな顔をして。」その声はいつものドナのものだった。

  今になって思い返せば、そのセリフがそれから起こったすべての出来事を暗示していたのだが、その時にはただの思春期の娘にありがちな気まぐれな夢想癖だろう、ということぐらいにしか考えていなかった。しかし、ドナは夢想家などではなかったし、何よりも現実から想像の世界に逃避するような少女趣味は持ち合わせていなかった。むしろ人並み以上に現実的で理論的で建設的で実践的で科学者の特質を父親と母親の両方から受け継いでいる聡明な娘だった。しかし、その日を境に娘は少しづつ変わっていった。何の脈絡もなく意味不明な言葉を呟いたり、子供には不似合な、というより理解不能なはずの大脳生理学の臨床データや、医療システム、古代宗教や線形数学などの専門書を読み漁ったり、かと思うと夜中にベッドにもぐりこんできては朝まで延々としゃべり続けたり、といった具合いだった。娘の寝室から誰かと会話しているかのような独り言は毎晩のように繰り返された。初めの頃は、母親のいない寂しさが原因だろうとか、これはドナに限ったことではなく普通の思春期の少女では当たり前のことなのだと思い込もうとしたが、その傾向に拍車がかかるにつれて、不安や心配は膨れ上がり、遂に精神医療の専門であり大学時代の同僚だったジョディに相談にのってもらうことにした。ジョディは学生時代からの良き友人であり良きライバルでもあり、私が医療現場を離れ未知の領域である"宇宙空間における生態系の変化"を研究するプロジェクトに志願し、大学病院をやめるまでの一時期はとりわけ特別な女性でもあった。やがて私が担当したプロジェクトDDに参加していたドナの母親、カレンと出会い結婚してからは、家族ぐるみの友人でもあり我が家のカウンセラーとなり、特に、妻の乗った探査船が冥王星を出発直後行方不明になったときに、毎晩のように励ましの電話をくれたのも彼女だった。そして、13人の乗組員全員死亡という最悪の宇宙船事故が確認されたとき、一晩中いっしょに泣きながら背中をさすってくれたのも彼女だった。いや正しくは全員死亡ではなく生存者が一名いたのだが・・・。そう、それが宇宙空間での出産という臨床実験の結果生まれた私たちの娘。ドナだったのだ。

  5時間にも及ぶ催眠カウンセリングの内容そのものは私にも教えてくれなかったが、私が想像していた以上にドナの心の闇に棲む魔物は巨大で強敵だ、ということだけはジョディの焦燥した表情からも判断できた。ただ彼女は「宇宙船内で起こった何かがドナの精神に影響を与えているのかも知れない。」とつぶやいた。意外だったのは、ドナに集中治療のためにしばらく学校を休まなくてはならないという事実を伝えたとき、嫌がるどころかむしろこれらを望んでいるかのように微笑んで、それを受け入れたことだった。一週間後、ジョディが自宅で大量の睡眠薬を飲んで自殺した。原因は不明だ。私は始まったばかりのドナの検査に付きっきりだったのでその受け入れがたい悲劇を悲しんでいる時間もなく、それはある意味で私にとっての救いだったのかもしれない。


  検査をはじめてから3週間程経過した。いよいよ明日は大学病院の"WAID"と呼ばれるホストコンピュータによる脳波の解析が行われる、という担当医の事務的な通達を傍らで聞いていたドナは「いよいよね。」という言葉を口にした。その響きがピクニックにでも行くような感じだったので、担当医は一瞬顔を曇らせたが、無邪気な子供に合わせるように、「あっという間さ。すぐに終わるから心配いらないよ。」とおどけて見せた。しかしドナはそれを無視して、WAIDのセキュリティー管理についてあれこれと質問したのだった。その夜、私はドナといろいろな話をした。本当にこの子は病気なのだろうか、と疑問に持つほど楽しく充実した時間だった。あまり夜更かしもできないので後ろ髪をひかれる思いだったが、その日は10時に病院をあとにした。翌朝、検査室に行く前にドナが珍しくキスをせがんだ。そして、愛してるわ、というセリフのあとに、パパ、ではなく、レスと囁いたのだった。それは妻が好んで使っていた私の愛称だった。さらに私の耳元で不可解な言葉を続けた。「葦の船に乗るのはあなたと私なのよ。」

  そうして私は一年以上もドナを待ち続けている。彼女がWAIDとアクセスした3時間後、WAIDと接続されている国の主要機関に設置されているコンピュータが次々にハッキングされ、防御プログラムを始動させた途端、WAIDのすべてのシステムがダウンしたのだ。政府の諸機関は混乱を極め、無秩序に出されるダミーコマンドによって各地区の核ミサイルを制御するコンピュータが誤動作を起こしているという情報も伝わってきた。その瞬間からドナも原因不明のままWAIDに取り込まれ、今日まで彼女の瞳が開かれることはなかった。窓の外に見えるラベンダーはその懐かしい娘の瞳の色に思えた。こんな小さな娘ですら心のなかには宇宙のように無限の闇を抱えている。それを考えるとき、妻が飽きるほど目にしたであろう永遠の宇宙空間の旅をも想像せずにはいられなかった。そして、その闇の中ではたとえ恋人であろうとも肉親であろうと、それはちっぽけで無力な存在なのだ。私は結局二人のことを判っているつもりで何も判っていなかったのではないだろうか?そんな自責の念に捕らわれずにはいられなかった。その時、ふとベッドの脇においてある小さな本棚が目に入った。そう、私は娘の愛読していた本を読んだことさえもなかったのだ。手を伸ばしてそのなかの一冊を開いてみた。それはシュメール文書の解説書で、パラパラとページをめくるとあるところに何度も何度もマーキングしている箇所があった。そして私はコーヒーを一口すすり、その本を読み始めた。

  翌朝、私はある決意を秘めて研究所に向かっていた。その決意とはWAIDに侵入する事だった。もちろん私は"ダイバー"ではないので能動的にはネットワークに侵入する事はできないし(ダイバーとは自分の肉体領域をコンピュータやネットワーク上に拡大して現実世界と同様に活動できる特殊能力者。)、法的に許されてもいないが、昨夜突然訪ねてきた特殊警察に所属しドナの友人を名乗る青年の提案を受け入れることにした。それはWAIDに逆アクセスを仕掛けるというものだった。彼の狙いが何かは判らないが、娘を取り戻すという部分については両者の利害が一致しているようだった。もっとも理論的にそういった行為が可能だとしても現実世界に戻れるという保証はどこにもなかったし、ましてドナをつれて帰る自信は1%にも満たなかった。しかし、昨日の夜考えた推論がもし真実だとしたら・・・。ドナにそのことを確かめずにはいられなかった。その上で、どうしても彼女につたえておきたい事があるのだ。公園のカーブを大きく回ったところで、なくなった妻が最後に残した手紙の結びの言葉を思い出した。もっとも、その言葉は今日までずっと意味が分からなかったのだが・・・。「さよなら、いつかあの場所で会いましょう。」緑の木々で埋め尽くされた丘を越えて、ようやく妻の言った<あの場所>が遠くに見えてきた。




第2話 生命の風が吹く場所

  「そろそろ一休みしようや。」その声でふと我に返った目の前に、毛むくじゃらのボビーの手に握られたワインのグラスが差し出された。いつのまにか雲が切れてアフリカの強い日差しが容赦なく私のブロンドの髪と白い肌に振り注いでいた。今朝堀出したばかりの粘土板の修復に夢中になってすっかり時間がたつのを忘れていた私は、昨夜のボビーのぶしつけな誘いの言葉を思い出して笑顔をひっこめた。「おいおいジャネット、まだ怒ってるのか。昨夜はちょっと飲みすぎただけなんだから、いいかげんに機嫌を直せよ。」「多分あなたは核ミサイルのボタンを押した後でも同じ言い訳をするでしょうね。」私はそう言い放つと他の発掘メンバーが休憩しているテントに足早に走り去った。ボビーは普段まじめでいい男なのだが、酒が入るととたんに女にだらしのないいいかげんな男に変貌するのだ。昨夜も酒の勢いで私のテントにもぐりこんできて、娼婦に要求するような態度で求めたのだ。そんなに簡単に許せることではなかった。私は追いすがるボビーを無視してテントの木陰に腰をおろし、いつもの論争に耳を傾けた。私たちジュネーブ考古学チームのテーマは「創世紀」を歴史上のノンフィクションとして実証することだった。その「創世紀」や「旧約清書」のオリジナルといわれる「エヌマ・エリシュ」や「アトラ・ハシス」と呼ばれる古文書(円筒印章や粘土板)の未発掘部分を調査するために、こんな辺境の地まで足を運んでいるのだ。すでに発掘され解読されたそれらのシュメールやアッカドの古文書に書かれいる内容は驚くべきものだった。例えば天文学につてもその知識は少なくとも現代に匹敵するものだった、と断言できる。例えば天王星の発見は1781年、海王星にいたっては1846年とその両星共せいぜい200年前に発見されたにすぎない。ところがメソポタミアのシュメール人は何と6,000年前にそのことを知っており天体図にも明確にその二つの惑星が描かれているのだ。さらにその二つの惑星を称して、水に満ちた青緑色の双子のようにそっくりな惑星<マシュシグ・カカブシャナムマ>という表現を用いているが、これらの事は1989年にボイジャー2号から送られてきた映像によって初めて明らかになったことなのだ。それまでの学界がガス質の惑星という間違った想定をしていた事から見ても彼らが非常に高度な天体知識を有していたことが分かる。この他にも2008年になってから発見された太陽系第10番惑星の存在や惑星間の距離や周期についても正確な記録が残っており、その知識は天文学にとどまらず、医学、法学、数学、音楽、化学、鉱物学、地理学、植物学、にまで及んでいるのだ。

  それらの驚異ともいえる知識の中で特に我々が注目したのは、そもそもそれらの膨大な知識をどのようにして手にいれたかということだった。その点について古代バビロニアの文献には何と<地球の文明は3,600年の公転周期を持つ太陽系第十二番惑星マルドゥックの住人ネフィルム(古代ヘブライ語で天より降りし者)からもたらされた>と書かれているのだ。医学や法学に関する限りはシュメール人の叡知を認める学会もこの話題になると無視するか笑い出すかのどちらかだった。これは地球の文明が宇宙人によってもたらされたというSF映画そのものだったからである。当然アカデミックな人々でこの文章を肯定的に受け止める者はごく稀で、それも既に異端扱いされているような学者ばかりだった。さらに、この古文書には文明どころか人類そのものが、このネフィルムという異星人によってもたらされたと書かれていたために学会からすっかり見放されてしまった。しかし、こういった嘲笑に立ち向かう勇気のある学者もいないわけではなかった。たとえばノーベル賞受賞者のフランシス・クリックは、<生命の胚珠が宇宙からもたらされた>というパンスペルミア説をさらに一歩進め<ある地球外生命体の意思によって生命の胚珠はもたらされた>という意図的パンスペルミア説を発表したのだ。この論文は1973年に発表されたが当然多くの批判にさらされることになった。私自身その意見を完全に肯定するわけではないが多くの部分は指示できる、と考えている。

  地球が誕生したのが46億年前で生命が誕生したのが40億年前とするとたったの6億念で単独元素から生命が産み出されるには短すぎる。もし、生命が自然発生したとするならば、生物の構成要素や遺伝要素だってもっとバリエーションに富んだものであるべきだからだ。どうして地球上のあらゆる生物の構成要素がDNAとRNDと20種類のアミノ酸に限定されてしまうのかが理解できないのだ。しかし、現在の私の興味は実はその先の人類創世のプロセスにあった。つまり生物の源が他の天体から意図的に持ち込まれようと自然発生しようと、そんなことはどちらでもよくて、人類の始まりとされるアダムとイブがどのようにして誕生したかが私の最大の関心事なのだ。


  そもそも類人猿の祖先霊長目が南東アフリカに現れたのが4000万年前で1500万年前に化石猿が分化し、直立猿人が出現したのが500万年前なのだ。さらに150万年前にピテカントロプスなどのホモエレクトスへ移行し、ようやく30万年前になってホモサピエンスが誕生する。

  この時が人類の誕生といわれており、この点について宗教家の信じる聖書の天地創造説と科学者の進化論とは真っ二つに対立している。つまり宗教家は人間は神によって誕生したのであって、猿から進化したなどというのは神への冒涜であると考え、科学者はそのような宗教観は科学の可能性を否定する迷信だと反論する。しかし、私の立場はどちらでもなく、むしろ人間は神によって創られたと考える宗教家達に近いのかもしれない。ただし、問題はその神が誰か?という点なのである。その答えをシュメールの古文書に求めるなら先のマルドゥクという十二番惑星の住人ネフィルムということになる。ただし、この点については発掘チームの中でもいろいろな考え方があって統一見解にはなっていない。特にチームの長老であるデービッドは"突然変異による人類起源説"を支持しており一歩も譲ろうとはしなかった。今もまさに環境の変化による突然変異の可能性について熱っぽく語っていたところだ。



  「だけど、その突然変異体が地球上に拡散するまでには気が遠くなるほどの時間がかかるはずだし、何よりも変異を決定づける遺伝子そのものは通常脆すぎて、それを何世代にわたって維持するのは奇跡に近いことよ。」私はすぐにデービッドに反論した。「そりゃ、君一人が生きる人生のサイクルで考えるとね。しかし、いいかいジャネット。そのサルどもは何千万年という時間待ち続けたんだ。肉食獣のご馳走という立場でね。たった一度だけ起きた染色体異常が信じられないほどの奇跡とも思えないよ。」結局二人の論争はいつもここで終わってしまう。デービッドは科学者の立場で旧約聖書や創世記を否定し、私は科学者という立場でそれを肯定している。つまり、現在の研究は、創世記の原点とされる古代シュメールやバビロニアの文献の中に科学的に納得できる人類誕生のプロセスを見つけ出すことなのだ。それが見つからない限り彼を黙らせることはできないのだ。



  創世記で神々は土を耕すべきアダムがいなかった為に彼を創造した、と書いている。古代アッカドの創造叙事詩「アトラ・ハシス」にも鉱山を掘り起こす労働者としてアダムを生み出したことが書かれている。十二番惑星の王権を握っていたネフィルムは恐らく地球上に生息していた猿人の遺伝子を操作することによって人間、アダムを生み出した。それはおよそ45万年前のことだ。アダムとは粘土を意味するアダモという語源に由来する。アッカド語で人間を意味する”ルル”は混ぜ合わされたもの、シュメール語の”ル”は飼い慣らされたものとか奉仕するものという意味なのだ。つまり彼ら古代人は自分達が何者かに奉仕するために創られた存在であることを知っていたのだ。それらの実験の様子は発掘された粘土板に描写されており、遺伝子操作実験の結果生まれた恐らく失敗作であろう新しい生物の姿もいくつも描かれている。ところが肝心の具体的な実験内容について記されている箇所がごっそりと欠落しており、今までは単なる古代人の想像の産物として片付けられていた。今回の粘土板も1年前に発掘された当初は単なる天体の測量記録ぐらいにしか考えられていなかったのが、つい先日発見された冒頭の部分にルルの誕生記録という文字が見つかったためにこの調査団が繰り出されることになったのだ。

  私はデービッドとの議論を早々に切り上げて自分のベッドに横になった。ふと、テーブルの上をみると届いたばかりの手紙の束がのっており、急いで差出人の名前を確認すると待ち焦がれていた彼女からの手紙がそこにあった。



  <拝啓ジャネット・ミルガン様 早速の資料ありがとう。貴方の送って頂いたプレゼントは本当に素晴らしいものでした。結論から申し上げて、あの数字の配列はDNAの遺伝子配列を記録したもので、人類創世記に遺伝子組み替えが行われたという貴方の推論はほぼ真実と考えてよいでしょう。何よりも私自身の研究課題でもあった”神の遺伝子”と呼ばれていた謎の遺伝子コードについての大いなるヒントを与えてくれたことには感謝の言葉もありません。わたしも今のプロジェクトが終了して地球に戻ったらすぐに、このテーマに没頭するつもりです。帰りを楽しみにお待ちください。それではお元気で。カレン・マクガイア>

  彼女は生物工学の第一人者であり、遺伝子組み替えの実績においては世界のトップクラスの科学者である。その彼女からのお墨付きを頂いたのだ。自分の推論が正しかったことが証明されたのだ。間違いない。歓喜という名のアドレナリンが全身を駆け巡り、大声をあげてテントを飛び出した。何度もブラボーと叫びながら昨夜のことはもうすっかり忘れて、呆然とたちすくむボビーに抱きついて何度も何度も首筋といわず頬といわず熱烈なキスを繰り返した。



第3話 女の子にはセンチメンタルなんて感情はない

  がドナと出会ったのはまったくの偶然だった。その頃、僕は担当教授へのあてつけのつもりで宇宙想像理論におけるビッグバンの可能性を否定したレポートを書いていた。その資料を探すために何度も図書館に通っていたのだが、そこの間抜けな受付係が彼女の本と僕の本を間違えたことから二人の物語は始まる。「ちょっと待って。」という声に振り向くと、ジュニアハイスクールの制服を着た小さな女の子が、息をはずませて立っていた。「それ、私の本。」とそれだけ言うと僕の借りるはずだった「ヴェリコフの宇宙誕生」を差し出し、代わりに僕の持っていた本を乱暴に奪い取った。胸に抱えたその本の表紙には「人類創世紀の彼方に」と書かれていた。そのタイトルと彼女の外見があんまり似合わなかったのでまじまじと彼女を見つめると、あわててその本を後ろに隠して、走って行ってしまった。それからは、ちょくちょく図書館で彼女と顔をあわせ言葉を交わし始め、論争したりする間柄になった。テーマは何万光年レベルまで離れた遠距離恋愛の話や、天王星で見つかった食用の星型クラゲの話や、ぱっとしなくなった宇宙カウボーイのTVシリーズの話なんかだった。傍目には年の離れた不思議なカップルだったろうけど、僕らは一向に気にもしなかった。もちろん恋愛なんてしろものじゃなくて、ただなんとなく同じ類型に属する匂いみたいなもんをお互い感じとっていたのかもしれない。いつしか僕らは人には絶対話せない秘密についても打ち明けるようになっていた。そして僕の決定的な秘密。他人には絶対に知られたくない秘密について打ち明けたときの彼女の反応は忘れられないものだった。「それって特別なことなの?」彼女は僕の打ち明け話しを一通り聞き終わった後に何もなかったようなあどけない表情でそう答えたのだった。それは僕がナイフでりんごがむけることを告白した後ではなく、僕が「ダイバー」であることを告白した後のことなのだ。そこで僕はその特殊能力について彼女に解説した。確かにダイバーであることはそれほど恥ずべき事ではないかもしれないし、むしろコンピュータによる政治決定が行われる今、そのシステムとネットワーク管理し防御する「ネットポリス」の特殊部隊の一員として活躍していることを考えれば、逆にその事を誇るべきなのかもしれない。だけど現実はそう単純でもなかった。まずノーマルな人間は自分と大きく違う人間を忌み嫌い無意識に排除しようとする。いわれのない差別を受けるのだ。そして何よりもダイバーであることを第三者に打ち明ける行為は、ネットポリスの職務規定として厳重に禁止されているのだ。


  そう、僕はその時すでにネットポリスのエージェントだったのだ。そんな危険を冒してまでドナに打ち明けたのだから当然、かなりの驚きがあると予想していたのだが肩透かしを食らってしまった。むしろ「実は私もダイバーなの。」という彼女の告白で衝撃を受けたのは僕の方だった。話を聞くと、彼女も不完全ながらもdive能力を有しているらしく、力を自由自在にコントロールできないものの何かのはずみでネットワークにつながる事ができるらしかった。そこで僕は、このことは絶対に二人だけの秘密であること。厳重に管理されているネットワークには近づかないこと。また、そこで知り得た情報はすべて記憶から消去することを約束させた。ドナはその決め事に不服そうな顔で抗議しようとしたが、僕の真剣な表情を見て渋々了承してくれた。本来ならばこの一件は本部に報告すべき義務があるのだが、そうしたくなかった。確かに自分の仕事の意義や重要性については誇りを持っていたが、それによって失うものの大きさも実感していたからだった。一人の人間に関わるすべての情報に触れる、ということがどんなに苦痛を伴う作業か、を。時には家族や友人や尊敬すべき人物の裏の情報に触れなければならないのだ。一方、現実世界では就職や結婚についてさまざまな制約を受け、思想や哲学・宗教については厳重なチェックを受け、半ば洗脳にちかいカウンセリングが施されるのだ。そんな人生を彼女に与えるのは嫌だった。


  そんな事があってから二人はさらに急速に近づいていった。気がつくと僕は肉親以上の愛情をもって、ドナに接していた。出会って一年たった頃には実の妹以上に彼女のことを理解することができた。ただ一点を除いては・・・。それはドナの父親に対する愛情についてだった。ドナは将来結婚したい相手として自分の父親の名前を挙げたのだった。

  それは決められた運命だと言いきっていた。その時の彼女の横顔を今でも覚えている。ぞっとするほど大人びた冷たく美しい横顔・・・。その話題はそれきりだったが、彼女を知れば知るほど、父親に対する異常なまでの愛情を感じずにはいられなかった。そして最後に彼女と会った日、正しくは現実世界で会った最後の日、彼女は夜中に突然私の部屋へやってきてたわいもないおしゃべりを始め、次に睡眠薬がたっぷり入ったコーヒーをご馳走してくれた。目が覚めたのは次の日の夕方で、コンピュータのモニターに彼女の書き置きが残されていた。<ごめんなさい、こんな形でお別れすることは本当につらいことです。あなたには最初から利用するつもりで近づきました。その事については弁解のしようがありません。私が欲しかったのはWAIDをはじめとするメインシステムのロックを解除するキーです。あなたを裏切ることは本当に辛かったのですが、私が明日WAIDに侵入するためにはどうしても必要なのです。あえて言い訳するならば、これは私の中に潜むもう一人の私の仕業なのです。彼女は私にさまざまな指示を出し時には私の体を借りて勝手に行動します。その理由のすべてはネットワーク上の死んだ母親のデータベースの中にあるようです。私は私自身の秘密をすべて知りたいのです。たとえ、それがどんなに忌まわしいものであったとしても・・・。しばらく私はダイビングに出かけます。そこは南の青い海ではなく真実という名前の底知れぬ海です。探さないで、といっても無理でしょうが、できれば向うでは会いたくありません。それでは私は行きます。親愛なる「兄」に愛を込めて、ドナより。

PS:私の中のもう一人の彼女と唯一見解が一致しているのは、女の子のはセンチメンタルなんて感情はない、ということだけです。ドナより。>


  それから一年近く過ぎたが彼女の希望通りネットワーク上で出会うことはまだなかった。というより近付くことすらできなかったのだ。ダイバーとしての彼女は未熟どころかむしろ卓越した戦闘能力を有しており、肉体に侵入したウイルスのように増殖を続け細胞を破壊し続けた。気が付くと彼女はネットワーク上のあらゆる悪意を統合し巨大な癌細胞のように君臨していた。彼女のいう決められたシナリオの最終目標がすべてのシステムの壊滅と軍事施設のシステム占領であることはもはや疑う余地がなかった。それが何のためなのかは誰にも分からなかった。彼女の母親のデータベースはそっくりそのまま彼女に持ち去られてしまっていたし、彼女の記録として残されたデータはどれもこれも役に立たないものばかりだった。もちろん僕自身の望みは本当のドナを取り戻すことだが、ネットポリスという組織にとって彼女は破壊すべきターゲット意外の何者でもなかった。今や人類の存続そのものが重大な危機にさらされているのだ。手段を選んでいる余地はもうなかった。ぎりぎりまで追い詰められた僕は最後の手段としてドナの父親を利用することにした。父親に対する強い愛情を人質にすれば、彼女の行動を止められるかもしれない、そう思ったのだ。

  その日、父親であるレスリー・マクガイア博士とは病院で待ち合わせることにした。正門にある古びた煉瓦のベンチに腰を下ろした途端、深緑色のスポーツカーに乗って彼は現れた。正直ほっとした。彼が本当にやってくるかどうか自信がなかった。もちろん博士には今ネットワーク上で起っている事件については一切話していない。娘さんを救助するためにあなたがDIVEする必要がある、としか言わなかったのだ。何かを感じ取っているのか、もしくは明瞭に何かを知っているのか分からないが、博士の表情からは特に不安な様子はうかがえなかった。早速病院の検査室に入り彼にいくつかの注意を与えた。立ち会いの医者は面倒に巻き込まれた事を恨んでいるようだったが、作業はてきぱきと行われていった。すべての装着を終えてカプセルに入る前にドナの父親に一つだけ聞いておきたいことがあったことに気づいた。「博士、唐突な質問で恐縮なんですけど、女性にはセンチメンタルなんて感情はないんでしょうか?」博士はしばらく考え込んだまま宙を見つめていたが、こう返事した。「ずいぶん昔の話だが、ある女性に腹が立ってこう言ってやったことがある。<女ってやつは目的を達成するためには手段を選ばないのか>ってね。彼女はすぐに笑ってこう言い切ったよ。<女の子にはセンチメンタルなんて感情はないのよ>ってね。それ以来、それが彼女の口癖になったよ。そして、どうしたわけかその鋼鉄女と私は結婚することになったんだ。亡くなった妻の話さ。」

  その話を聞いて僕は突っ立ったまま身動きもできなかった。もしかしたら、僕は大きな勘違いをしていたのかも知れない。僕が妹のように考えていたドナは・・・。そう考えるとすべての辻褄が合う。そのことを博士に伝えるべきなのか、頭が混乱してどうしていいのかわからなくなってしまった。その困惑した顔を見て博士が救いを差し伸べるように僕の方に手をおいた。「何も言わなくていい。そろそろ行こうか、ドナが待っている。」

  どうやら、博士もすべてを察しているらしかった。博士のあとに続いてカプセルの中にはいると、僕もヘッド・コミッターを被り目を閉じた。全身の神経を集中するといつものように後頭部が痺れたようになり、”そいつ”はやってきた。一瞬にして僕らは仮想世界のネットワークに投げ出され、すべてがゼロと1だけで構成される乾ききった砂漠の旅人となった。



第4話 彼女の目的  ear Dr.Jannet

小隕石とのニアミスという不幸な事態で私を除く全員が死亡して、すでに6ヶ月、まさに糸の切れた凧のように私を乗せたこの船はあてもなく銀河をさまよい続けています。私はたまたまリモートカメラの修理の為、船外に出ており一命を取りとめましたが、船内は一瞬にして何もかも、それこそ悲鳴すら真空冷凍パックされてしまったのです。しかし私のリタイヤもそんなに先のことではないような気がします。一人きりになってしばらくはシステムの修復やクルーの葬儀、研究データのパッキング、報告書の整理、継続できる実験の再開、等々、に追われて忙しい日々を送りましたが、既にやるべき事はすべてやり終えました。さらに研究書や小説、詩、学術書やマシンマニュアルまで文字の書いてあるものはすべて読み尽くしました。ここ最近は”餓死よりもましな死に方についての考察”をテーマに日々考え続けており、かろうじて退屈だけは免れています。冗談はさておき、やはり私が悲しみ苦しんだのは娘のドナを失ってしまった現実を受け止めることでした。そんなとてつもない孤独と絶望の中で正常な精神状態を保っていられたのは”私だけが何故生き残ってしまったのだろう”というごく単純な疑問に対する回答を探し求めたことでした。その答えは、不遜な言い方かもしれませんが、私が特別な存在であることを神が示しておられる、ということだったのです。わたしは選ばれた人間なのだ、私にはやるべき事がまだあるのだ、と。そしてこの言葉をくる日もくる日も精神的な苦痛が襲ってくる度に呪文のように唱え続けたのです。そんなある日、私は重大な思いつきに出会いました。私が船外にいるときに隕石が船を襲ったように私がこうして銀河をさ迷っている間に地球という船を巨大な隕石が襲ってしまったら一体どうなってしまうのかという恐ろしい思いつきでした・・・。それは思いつきというよりも神の啓示に近いものでした。恐ろしい程の巨大な天体の真っ赤に燃えるガス状の尾びれ、その重力によって起る海面の上昇、摩天楼を押し流してしまうほどの巨大な津波、それらのビジュアルを私ははっきりと思い描く事ができたのです。そして、確信したのです。これは既に現実として今地球で起っている出来事か、もしくは近い将来確実に起る出来事なのだ、と。その瞬間私の中ですべてのストーリーが一つにつながったのです。遺伝子工学に携わる科学者をただ一人生き残らせた理由も含めてすべて。


  それから彼女を生み出すまではまるで夢の出来事のようでした。幸い地球から運んできた実験器具はすべて損傷もなく、私は何の失敗もなく新しい生命の創造をやり遂げたのです。むしろ現実の理論においては強烈な罪悪感が伴う作業であるはずなのに、私にとっては、神の加護を受け、祝福されている、という安らぎと幸福感がありました。染色体の成長を抑制する遺伝子を書き換えたことで、1ヶ月後には、彼女はまるで死んでしまったドナの再来であるかのようにカプセルの中で微笑んでいたのです。完璧なクローンベビーとして・・・。


  しかし、私にはその束の間の幸せを噛みしめている余裕はありませんでした。私に残された時間があまりに短かったからです。それからは、眠る時間を惜しんで彼女が待ち受けている未来の考察とその対策の為に睡眠を削って取り組みました。まずは彼女を無事に地球に送り届ける事。そして人間のクローンである事実を隠したまま来るべきその日を迎えなければならない事。もし、その事が明るみになれば、現在の法律上彼女は間違いなく抹殺されるはずです。しかし、それは決してあってはならないことです。いずれ、われわれの地球を脅かす堕落した人類に最後の審判がくだされる日に、彼女は神に選ばれた人間として重要な役割を果たさなければならないからです。さらには、彼女の保有する得意な染色体を後世に伝える為に配偶者となるべきアダムのDNAの適正をも設定しました。(それはレスのヒトゲノムを理想DNAとしました。)ここまでの話を聞いて昔のSFにお決まりの孤独な科学者の狂った妄想と思われるかも知れませんが、私は文字通りの孤独ですが狂ってなどいません。何よりもそのことは聖書の元となる「創世記」のさらに原点といわれる古代シュメールの創世神話に、明確に予言されているのです。さらにいえば遠い遠い昔、われわれ人類そのものが「神」と呼ばれた科学者の手で、染色体操作によって生み出されたものであることも・・・。もちろんその知識は貴方が授けてくれたものでしたね。進化論における大きな謎であるホモサピエンスと猿人との「失われた環」を埋める回答がそこにあることも。

  そうなのです。進化した惑星の住人が地球を訪れ、そこで出会った猿人のDNAを操作することによって誕生したのが我々人類であり、再び欲望というの名の果実をただ食い尽くすだけの現代の猿人をさらに進んだ生命体に進化させるのも染色体操作によるものなのです。したがってドナには従来の人類が持ち得なかったある特殊な能力も持たせることにしました。その意味においてドナはオリジナルの人間を越えたクローンなのです。もちろんドナがそれらの大きな使命をやり遂げるためには大きな犠牲を払わなければなりません。まず光輝く人類の新世紀を築くために、堕落した人間を整理すること。もし、私の想像通りに外的な災厄によって人類が壊滅するのであれば彼女の手を下すまでもないでしょう。ただし、地球が退廃した平和を享受している状態を続けるならば、彼女のDNAに組み込んだ爆弾が目覚め確実に行動を開始します。選別と消去の日。しかし博士、その日を嘆いてはいけません。それは真に祝福された至福の時なのです。神の意思にかなうものだけが存在を許される真の楽園の輝かしき1ページなのです。過去には実際に我々人類の奴隷とすべくチンパンジーと人間の交配種をそうぞうしようとした科学者もいたけれど、わたしは彼らや古代の神々のように自分よりも劣る生物を生み出し支配しようとは思いません。むしろ我々よりも優れた生物を生み出すことによって人類を次のステップへと進ませることが私の役割なのだ、と信じています。



  これが話のすべてです。私がドナを作り上げた本当の理由です。もちろんこの話を信じる信じないはあなたの自由です。幼いドナを抹殺することだって簡単なことでしょう。しかしその決断をする前に今一度よく考えてみて下さい。地球に生きる現在の人間達は果たして地球の盟主として生きる資格があるか否かを・・・。最後にお願いが3つあります。まず、この手紙の内容を誰にも教えない事。二つ目はドナをあくまで私とレスの人工受精によって生まれた子供として扱ってもらう事。最後にこのレターを記録したCDをまるごと研究所のコンピュータにコピーする事、です。


  そろそろペンを置きます。私の役目も終りこれでやっと眠ることができます。ドナは仮死状態のまま緊急用のカプセルで航路の密集している火星上空に送り出します。それでは、いつか地球上でお目にかかることを信じて・・・。そして、ドナが真の覚醒を果たす時を祈りながら・・・。



<エピローグ>

  その事件から7年後、レスリー・マクガイア博士は大脳生理学の研究成果によりノーベル賞を受賞した。事件当時、一部のマスコミによって様々な憶測が飛び交い、WAIDがある反政府組織によって完全に占領されたと報道した通信社は、一連の事件に博士も深く関与しているという疑惑を投げかけたが、博士はこれを完全に否定した。 その後、博士が昏睡状態のまま眠り続ける自分の娘の記憶モデルを使って、C.L.S.という破壊兵器を作ったという黒い噂も流れているが真偽のほどは定かではない。



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